凌霜第397号 2013年04月30日

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凌霜三九七号目次

◆巻頭エッセー 我が人生の原点     八 十 祐 治

◆母校通信                  田 中 康 秀

◆六甲台だより                鈴 木 一 水

◆本部事務局だより           一般社団法人凌霜会事務局

◆会員増強対策の推進について(1)   一般社団法人凌霜会 会員増強対策委員会

◆(公財)六甲台後援会だより(32)  (公財)神戸大学六甲台後援会事務局

◆学園の窓

 選挙管理を政治学する           大 西   裕

 Home Is Where Peace Is           趙   来 勲

 イノベーションとサイエンス         中 村 健 太

 経営学研究科に勤務して          松 井 建 二

◆六甲余滴 中国の経済改革との関わり         渡 辺 頴 一

◆凌霜俳壇  凌霜歌壇

◆大学文書史料室から(6)          野 邑 理栄子

◆学生の活動から

 六甲台就職情報センターでのアシスタントを経験して  菅 沼 美 沙

 香港での国際模擬商事仲裁大会に参加して 土 井 勇 毅

 "手作り"の国際会議を終えて      山 下 亜 椰

 六甲台学生評議会(ベルカン)      横 尾 聡 美

 業界セミナー2014            日 下 愛 理

 神戸大学応援団総部の紹介        片 山 有 樹

◆六甲台就職情報センター NOW 自己成長           浅 田 恭 正

◆チンクシャさんの消息を求めて      上 村 久 治

◆リレー・随想ひろば

 本邦最古の対校水上競技大会       石 井 義 章

 私と風景写真                鳥 谷 拓 之

 まだ、苦闘しています           高 岡 義 幸

 不惑を迎えて                上 田 純 也

 神戸から金沢での生活          永 江   亘

◆表紙のことば 水郷をゆく 近江八幡     松 村 琭 郎

◆支部通信 東京、大阪、神戸、福山、広島、鹿児島、デトロイト

◆メルマガ「凌霜ビジネス」ヘッドライン

◆神戸大学ニュースネット委員会OB会

◆つ ど い

 水霜談話会、神戸凌港会、大阪凌霜短歌会、

 東京凌霜俳句会、大阪凌霜俳句会、凌霜川柳クラブ、

 凌霜謡会、二水会、サッカー部OB会

 

◆クラス大会 凌霜六思会

◆クラス会 互志会、しんざん会、神五会、三四会、珊瑚会、

      イレブン会、むしの会、双六会、四三会

 

 

<記事紹介>

◆巻頭エッセー

  我が人生の原点

                 平5営 八  十  祐  治

                 (摂津総合法律事務所弁護士)

 私が神戸大学を受験するきっかけになったのは、大阪府立茨木高校の3年生に在学していた時、「神戸大学は国立大学なのに、関西学生サッカーリーグの1部に所属しているらしいよ」という1歳年上の兄(平3営)から言われた一言でした。

 私は、大阪ではサッカーの盛んな地域である高槻市で生まれ育ち、兄の影響もあり小学4年生から本格的にサッカーを始めました。それから、サッカーの魅力に取り憑かれ、小学生の時には大阪府の代表選手に選ばれ、中学生の時には大阪大会、近畿大会でそれぞれ優勝し、全国大会に出場しました。茨木高校に進学後もサッカーを続け、高校3年生の時には大阪府の代表選手の一員として、沖縄県で開催された「第42回海邦国体」に出場しました。

 このように、小学生の時からサッカー一筋の生活を送ってきましたので、大学でもサッカーを続けたいと考えていました。当時、私は、大阪府の代表選手に選ばれたこともあり、関西の私立大学からサッカー推薦入学のお話をいただきましたが、兄から言われた一言で「神戸大学のサッカー部の一員として、関西学生サッカーリーグの1部でプレーしたい」という想いが強くなり、志望校を神戸大学に決めたのでした。とにかく、神戸大学に入学して、サッカー部に入りたいと考えていた私は、神戸大学であれば、どの学部でもよかったのですが、兄が経営学部に入学していましたので、「兄が合格したのだから、俺も合格できるだろう」と安易に考え、同学部を受験することに決めたのです。しかし、兄から受け継いだ参考書、問題集を使い、受験勉強に励んだものの、高校3年生の11月までサッカーをしていた私にとって、神戸大学の壁は厚く、受験に失敗してしまい、同学部入学を夢見て、浪人生活に入ることになりました。浪人生活では、「神戸大学の体育会サッカー部の一員となる」ことだけを夢見て、1年間サッカーを封印して受験勉強に励みました。その甲斐あって、翌年に念願の経営学部に入学することができたのでした。

 入学した私は、早速、体育会サッカー部の門を叩き、晴れて体育会サッカー部の一員になることができたのでした。サッカー部に入部して、一番驚いたのは、私が浪人中に関西学生サッカーリーグの1部から2部に降格していたことです。関西学生サッカーリーグ1部でプレーすることを夢見ていた私にとっては、すこし「詐欺」にあったような気持ちでしたが、気持ちを切り替え「1部への昇格」を新たな目標に掲げたのでした。また、もう一つ驚いたのは、サッカー部では、練習内容、選手起用、チーム運営などが全て学生だけで行われていることでした。監督は、サッカー部のOBの方でしたが、ご自身の仕事があり、平日は練習に参加することができないため、「強くなるためにはどうしたらよいのか」など、常に自分たちで考えながら、練習内容、選手起用を決定していかなくてはなりません。小学校、中学校、高校では、常に監督やコーチから教えられたことを、一生懸命取り組むというスタイルだったのですが、大学では、誰も教えてくれる人はおらず、自分たちだけで考え実践し、失敗したら反省し、また考え実践するというスタイルに、必然的に置かれたのでした。

 目標とする「関西学生サッカーリーグ1部へ昇格」を果たすためには、同リーグ2部で優勝しなければなりません。しかし、当時の2部には、現在では1部の常連校となっている関西大学、関西学院大学、近畿大学、桃山学院大学、阪南大学などが所属しており、それぞれがサッカー推薦入学を始め、チーム力の強化を始めていたこともあり、国立大学である神戸大学が2部で優勝することは簡単なことではありませんでした。しかし、大学入学当時は、自分たちで考え行動するというスタイルに戸惑いがありましたが、個性豊かで魅力的な先輩や仲間に恵まれ、私が2回生になったころには、真摯にサッカーに向き合い、主体的にサッカーに取り組むことができるようになった結果、個人的にもチームとしても、技術・体力・精神力が飛躍的に上達しているという実感が得られるようになっていました。その時を同じくして、我々神戸大学は、関西大学、関西学院大学、近畿大学、桃山学院大学、阪南大学を撃破し、見事2部で優勝。念願の1部に昇格することができたのです。

 その時の私の活躍が評価され、関西学生選抜の一員として、毎年春季に全国を北海道・東北、関東、東海・北信越、関西、中国・四国、九州の6地域に分けて開催される大学サッカーの地域別対抗戦に参加することになったのです。その大会でも、優秀選手に選出され、東西大学オールスター戦に西日本代表としてプレーすることができました。これをきっかけに今まで以上にサッカーに打ち込むようになった私は、プロサッカー選手になることを目指すようになり、ついに大学4回生の時に、1993年に開幕することが決まっていたJリーグに所属するガンバ大阪への入団が決定したのでした。

 当時、私は海運論の宮下國生先生のゼミに所属していたのですが、ガンバ大阪への入団が決定したのが12月頃で、宮下先生に進路の報告がなかなかできず、先生をヤキモキさせた上、プロサッカー選手になると報告した時に、先生が何ともいえない表情をされたことを今でも鮮明に記憶しています。また、私の父親は銀行員をしており仕事でほとんど家におらず、私が小学4年生でサッカーを始めてから、プロサッカー選手になるまで、一度も私の試合を見に来てくれたこともないような仕事人間でしたから、私が父親に「プロサッカー選手になる」と報告した時は、理解してもらえず、反対する父親とぶつかり合ったりしました。

 このようにして93年にガンバ大阪に入団したのですが、Jリーグでの試合出場は3試合だけで、2年間で戦力外通告を受けました。しかし、その3試合の内の1試合がテレビ中継され、癌で入院していた父親が病床で観戦してくれ、その翌日、父親は息を引き取りました。父親が私のプレーする姿を初めて見て、どのように感じていたのか分かりませんが、最後に親孝行ができたのではないかと思っています。その後、ヴィッセル神戸、アルビレックス新潟へ移籍するも、目立った活躍ができないまま、いずれも戦力外通告を受け、最後はJFLに所属する横河武蔵野というチームで3年間プレーして、31歳の時に現役を引退しました。プロサッカー選手になってから引退までの8年間は、ほとんど活躍することができず、想い描いていたサッカー人生とはほど遠いものでありましたが、神戸大学サッカー部で教えられたサッカーと向き合い自分で考え実践するというスタイルを貫き通したという自負もあり、引退した時は、プロサッカー選手の道を選んだことに対する後悔は全くありませんでした。

 しかし引退後、私はサッカーのない日常が空虚なものに感じられ、悶々とした日々を送っていました。そこで、サッカーと同じくらい熱意を持って取り組める仕事に就きたいと考え、弁護士になることを決意し、司法試験の勉強を始めました。司法試験の勉強を始めてから、合格するまでの約4年の内の最初の2年間は、仕事をしながら毎日夜中の3時まで勉強し、最後の2年間は仕事を辞め、毎日12時間くらい勉強しました。そして、2005年に司法試験に合格することができました。

 神戸大学に入学し、大学で過ごした4年間で得た自ら考え実践するというスタイルが、ガンバ大阪への入団や難関である司法試験の挑戦など、私の人生における大きな決断をする上で欠くことのできない重要な指針となっていると実感しています。現在、弁護士として6年になり、今後も多くの苦難に直面することがあると思いますが、神戸大学で学んだスタイルを貫き、その苦難を乗り越えていきたいと思います。

筆者略歴

昭和44年10月31日生まれ。大阪府高槻市出身。府立茨木高等学校卒業後、神戸大学経営学部入学。平成5年3月卒業後、ガンバ大阪に入団、ヴィッセル神戸、アルビレックス新潟などで計8年間プレー後、31歳で引退。その後4年間、司法試験の勉強を続け、平成17年11月司法試験合格。約1年半の司法修習後、平成19年9月から弁護士(大阪弁護士会所属)。