凌霜第406号 2015年06月30日
凌霜四〇六号目次 ◆巻頭エッセー ロジスティクスに携わって46年 番 尚 志 ◆母校通信 藤 田 誠 一 ◆六甲台だより 鈴 木 一 水 ◆(公財)六甲台後援会だより(41) (公財)神戸大学六甲台後援会事務局 ◆大学文書史料室から(15) 野 邑 理栄子 ◆凌霜俳壇 古典和歌 ◆表紙のことば シエナ・カンポ広場(イタリア) 本 間 健 一 ◆学園の窓 モンゴルとラオス 駿 河 輝 和 ピケティ『21世紀の資本』をもとに日本経済の課題を検討する 滝 川 好 夫 次世代型電子署名認証法制に向けて 米 丸 恒 治 イノベーションに対する投入の多様性 八 木 迪 幸 ◆末永山彦さんと山口誓子学術振興基金 新 野 幸次郎 ◆第二学部 発足のころ 若 住 昇 ◆学生の活動から 体育会女子タッチフットボール部Rooksの紹介 福 長 迪 女 香港模擬仲裁大会を終えて 齋 藤 光 理 六甲台就職情報センター アシスタントを経験して 浜 崎 智 世 ◆六甲台就職情報センター NOW "Cool head but warm heart." 浅 田 恭 正 ◆リレー・随想ひろば 多様性を認めあう社会へ 宗 正 誼 私の履歴書 渡 部 浩 三 みなさんの使命は生きて日本に帰って来ることです 川 畑 博 司 会計士へのステップ 西 佐友里 ◆追悼 髙村 勣君(昭21)を送る 森 下 茂 生 橋本守先輩(昭28経)をお送りする 絹 巻 康 史 灘波(旧姓塚本)泰三大兄(昭28経・予科9回生)を惜しむ 市 島 榮 二 山本泰督先生(昭29経)の逝去を惜しむ 片 山 誠 一 永井長造君(昭31法)を偲ぶ 浅 野 定 志 松本昭一君(昭31営)を偲ぶ 浅 野 定 志 ◆編集後記 鈴 木 一 水 ◆投稿規定 <抜粋記事> 巻頭エッセー ロジスティクスに携わって46年 昭44営 番 尚 志 倉庫業は生き残れない? 私は、昭和44年(1969年)4月、三菱倉庫㈱に入社した。入社早々、「倉庫は残っても、倉庫業は残れない」と、倉庫業界の要職を兼ねていた当時の当社社長が業界の経営者を前にして発言したとかで、業界では大騒ぎとなった。発言の真偽のほどは定かではないが、当時、私は神戸支店に配属され、神戸港に入港する外航貨物船の荷役作業の担当をしていた。「社長が言っていることは本当かもしれない。しかし、なんとしても俺たちは生き延びなければ」。そう思ったことを今でも覚えている。 昭和42年アメリカのマトソン社が日米定期貨物航路にコンテナ船を投入したことを嚆矢として、わが国物流業界にコンテナリゼーションという大変革の波が到来した。 当時、貨物船によって輸出入される貨物は、ケース(木箱)、カートン(段ボール箱)、バッグ(袋)などで梱包されており、積み卸しされる貨物のほとんどが港湾に立地する「倉庫」を経由していた。それがコンテナ船では、貨物はコンテナに詰められて日本まで輸送され、船から卸されるときも、直接トレーラーに載せられて工場まで運ばれる。輸出の場合はその逆になる。これでは港湾に「倉庫」はいらなくなる。 当社をはじめ三井、住友、渋沢といった大手の倉庫業者は、東京港、横浜港、名古屋港、大阪港、神戸港といった大都市の港湾地域で倉庫業を展開していた。その取扱い貨物のほとんどは輸出入貨物であった。「コンテナリゼーションの進展で、倉庫業は成り立たなくなる」。私がそう思ったのも無理ではなかったかもしれない。
当社のルーツ
先日、神戸大学出身のある先輩から「三菱倉庫のルーツは何ですか?」と聞かれた。即座に「銀行ですよ」と答えたら、先輩は大いに驚かれた。 明治20年(1887年)、当社は「三菱為替店」の倉庫部門が独立して設立された。 「三菱為替店」は、明治13年(1880年)に三菱の創業者岩崎彌太郎の海運会社「郵便汽船三菱会社」が考案した、輸送貨物を担保とする「荷為替金融」を行う会社として設立された。同社は、荷為替貸付を行うとともに、船積みのために急増する貨物に対応するため各地に「倉庫」を拡充していった。同社の業務は、金融業務と倉庫業務であった。同社は、その後の不況や親会社の「郵便汽船三菱会社」の経営難により、明治18年(1885年)に清算されるが、その倉庫業務を継承して設立されたのが当社である。 一方、同社の金融業務は、三菱が「第百十九国立銀行」の経営を引き受けたことにより同行に引き継がれ、「三菱銀行」(現在の三菱東京UFJ銀行)へと発展することになる。 因みに、「郵便汽船三菱会社」は、明治政府指導のもとに設立されていた船会社「共同運輸会社」と激烈な競争を繰り返した結果、同じ明治18年(1885年)に同社と合併し、「日本郵船会社」が創立された。これが現在の「日本郵船株式会社」である。 当社以外の旧財閥系倉庫会社(三井倉庫、住友倉庫、渋沢倉庫、安田倉庫)もその財閥が営んでいた金融業(商品を担保とする金融と担保商品の保管料を収受することを併せて行う事業)をルーツとしている。
「倉庫」から「配送センター」へ
コンテナリゼーションの波は、日米航路を嚆矢として拡大し続け、大都市周辺の港湾には大規模なコンテナターミナルが整備されていった。昭和40年代後半までにはほとんどの外航定期航路はコンテナ化された。 しかしながら、現在も大都市の港湾には、コンテナターミナルの背後地に大型の倉庫群が林立している。幸いなことに、当社をはじめ大手の倉庫会社も事業を継続・拡大している。 私見であるが、その理由の一つは、荷主企業の物流効率化の推進により、物流のアウトソーシング(外部委託)の受け皿として、倉庫業者を利用するケースが増加したことが大きい。グローバリゼーション(市場の国際化)や規制緩和による競争の激化により、荷主企業は、自らが自社製品の物流業務を行うのではなく、専門業者である倉庫事業者に保管・配送、梱包、加工作業、検品などの物流に必要な業務を任せて物流の効率化を図ることとなったのである。 現在、当社の保有倉庫は、「倉庫」ではなく、「配送センター」と称しているが、まさに業務の実態を表している。取扱い貨物も、原材料よりも製品が大部分を占めるようになり、飲料、食品、スポーツ用品、衣料品、医薬品、医療器具、住宅用品など消費者に身近な物品の配送センター業務が中心となっている。
「物流」から「ロジスティクス」へ
当社の事業内容は、貨物の保管・輸送などを行う「物流事業」と、市街化により物流に適さなくなった用地を活用する「不動産事業」(オフィスビルや商業施設の賃貸・管理運営など。例えば、神戸ハーバーランドの商業施設「umie」、「モザイク」、横浜駅東口の「横浜ベイクォーター」)に大別される。物流事業に供されている所管面積は約100万平方メートル、不動産事業に供されている所管面積も約100万平方メートルと拮抗している。 「物流事業」では、主力の「倉庫(配送センター)事業」と併せ、トラック輸送を中心とする「陸上運送事業」、外航コンテナ船や航空機を使って海外―日本間の輸送を請け負ったり、海外で物流事業を行う「国際輸送事業」、国内主要港でコンテナターミナル作業を行う「港湾運送事業」などを行っている。 わが国では、貨物の流通を称して「物流」(physical distribu-tion)という言葉が従来から用いられてきたが、近年は、グローバリゼーションの進展とともに、諸外国と同様、「ロジスティクス」(logistics)という英語を用いるのが主流となってきている。「ロジスティクス」という言葉は、本来、軍事用語であり、「兵站」と訳されている。広辞苑では、「兵站とは、作戦軍のために、後方にあって車両・軍需品の前送・補給・修理、後方連絡線の確保などに任ずる機関」とある。国内、国外を問わず、貨物を最適な場所で保管・加工し、タイムリーに消費者・顧客に届ける物流システムの構築が「ロジスティクス」ということなのであろう。当社も約20年前から英文の社名を「Mitsubishi Logistics Corporation」と称して、事業のグローバル化に取り組んでいる。
会社生活46年を振り返って
「倉庫」が「配送センター」に、「物流」が「ロジスティクス」と呼ばれるようになったが、私は、46年間「三菱倉庫」で働いてきた。冒頭記述したように、コンテナリゼーションに象徴される物流の大変革、オイルショック、バブル崩壊、阪神大震災、リーマンショック、東日本大震災などにより、会社の事業環境は刻々と変化したが、会社の先輩諸氏をはじめ、多くの方々からご指導・ご支援をいただきながら仕事に取り組むことができた。結果として、社長、会長まで務めさせていただくこととなった。 IT革命によりネット販売が増加し、ロジスティクス産業に新しい変化が起きている。この流れの勝者になれるのか、敗者となるのか、外国企業を含めて激しい競争が展開されている。マクロ的にも、国内人口減少、経済成長の鈍化などわが国のロジスティクス産業の将来は決して明るいとは言えない。当社も海外での事業展開を加速させているが、国内での競争以上の厳しい戦いが続いている。しかし、ロジスティクスは、経済活動が円滑に行われるためには不可欠である。問題は、誰がその担い手になれるかどうかだ。 これからも、当社が存在感のあるロジスティクス企業として存続・拡大できるよう微力を尽くしたい。
筆者略歴 1946年石川県小松市生まれ。69年神戸大学経営学部を卒業後、同年三菱倉庫㈱入社。2003年同社取締役社長。08年同社取締役会長、13年退任し、現在、同社相談役。 |