凌霜第438号
凌霜四三八号目次
表紙絵 昭37営 有 田 幸一郎
カット 昭34経 松 村 琭 郎
◆巻頭エッセー
どうして大阪は万博が好きなのか―原点としての第五回内国勧業博覧会 宮 本 又 郎
目 次
◆母校通信 中 村 保
◆六甲台だより 行澤一人、鈴木 純、清水泰洋、村上善道
◆本部事務局だより 一般社団法人凌霜会事務局
3月度通常理事会/5月度通常理事会/ご芳志寄附者ご芳名とお願い/
事務局への寄附者ご芳名/会費の銀行自動引き落としへの移行のお願い
◆(公財)六甲台後援会だより(73)
◆大学文書史料室から(47) 野 邑 理栄子
◆学園の窓
大学斜陽の時代の小部局長のつぶやき 木 村 幹
法人評価と認証評価を終えて 畳 谷 整 克
着任までを振り返る 塩 谷 剛
研究生活も終わりに近づいて思うこと 井 上 典 之
◆表紙のことば コスモス咲く大原の里 有 田 幸一郎
◆六甲アルムナイエッセー
今までにないもの 石 井 純
神戸大学学生×日比谷花壇『お花を知らないお花屋さん』プロジェクト 廣 岡 大 亮
◆凌霜ひろば
将棋とAI(人工知能) 水 野 潤 一
◆六甲台就職相談センターNOW
六甲台就職センター相談員所感 吉田 透
◆学生の活動から
ライフデザインスクール(LDS)18期に参加して 峰 杏 佳
六甲台学生評議会第19代代表より~神戸大学ベルカンのご紹介~ 巻 木 大 輝
神戸大学広告研究会(AdTAS)の活動紹介 木 戸 奈 月
◆本と凌霜人
『幸せの新資本主義』 後 山 茂
◆クラス大会 神戸六七会、GOGO会
◆クラス会 しんざん会、むしの会、双六会、神戸六七会、
四四会、与禄会、教養11クラス会…43年入学
◆支部通信 東京、三重県、京滋、神戸、愛媛県、熊本県
◆つどい 幸ゼミ、二水会、サッカー部OBOGクラブ、水霜談話会、
大阪凌霜短歌会、東京凌霜俳句会、大阪凌霜俳句会、
凌霜川柳クラブ、神戸大学ニュースネット委員会OB会
◆ゴルフ会 名古屋凌霜ゴルフ会、廣野如水凌霜会、
芦屋凌霜KUC会、花屋敷KUC会
◆物故会員
◆国内支部連絡先
◆編集後記 行 澤 一 人
◆投稿規定
<巻頭エッセー>
「どうして大阪は万博が好きなのか―原点としての第五回内国勧業博覧会 」
宮 本 又 郎(昭42経、昭44経修)
(大阪大学名誉教授、凌霜会副理事長、神戸大学大阪クラブ理事長)
万博マニア大阪
大阪・関西万博(2025年4月13日~10月13日)の開幕まで2年を切った。まだ一般市民の間ではそれほど盛り上がっていないけれども、大阪市内に出るとあちらこちらで万博を目指した施設の建築風景がみられ、準備が進められていることが伝わってくる。
国際博覧会協会(Bureau International des Expositions)で公認された国際博覧会は日本ではこれまでに5回開かれ、今回の大阪・関西万博は6回目にあたる。すなわち、①1970年の日本万国博覧会(大阪万博)、②1975年の沖縄国際海洋博覧会(沖縄海洋博)、③1985年の国際科学技術博覧会(つくば博)、④1990年の国際花と緑の博覧会(花博)、⑤2005年の日本国際博覧会(愛・地球博)、そして⑥2025年の大阪・関西万博である。国際博覧会は、開催期間、会場などの点で大規模なものを「登録博」、そうでないものを「認定博」(1995年以前はそれぞれ「一般博」、「特別博」と称していた)というが、①、⑤、⑥が一般博、登録博である。つまり、日本での国際博覧会6回のうち3回は大阪で、しかも、大規模な「登録博」「一般博」については3回のうち2回が大阪開催なのだ!
どうして、大阪はこんなに万博が好きなんだろう?空前の大成功を収めた1970年の大阪万博の夢をもう一度、ということか。しかし、歴史屋の私には、大阪の万博好きにはもっと深い淵源があるように思える。1903(明治36)年に天王寺と堺で開かれた第五回内国勧業博覧会にこそ、万博マニア大阪の歴史的ルーツがあるのではないか、これがこのエッセイで書こうとしていることである。
世界の万博と内国勧業博覧会
では、内国勧業博覧会とは何か。世界で最初の万博は1851年のロンドン万博であったとされている。産業革命がひとまず完了したという時代背景のもと開かれたもので、ガラス張りの水晶宮が話題となった。興行的にも大成功で、主催者(ヴィクトリア女王の夫)の名を冠したロイヤル・アルバートホールは万博の剰余金で建設された。ロンドン博成功の刺激を受けて、その後、フランス、アメリカ、オーストリアなどで盛んに万博が開かれ、来場者数も1851年ロンドン万博の604万人から1900年のパリ万博では5,086万人とうなぎ登りに増加、19世紀後半はまさしく万博の半世紀であった。
日本と万博との関係では、1851年のロンドン万博には日本は出品しなかったが、開港の条件交渉のため渡欧していた幕府の使節団38人が見学に訪れている。福沢諭吉や福地源一郎もいた。日本が最初に出品したのは1967年のパリ万博である。幕府は徳川慶喜の弟昭武を代表とする33名の使節団を送ったが、パリに到着してみると、薩摩藩と佐賀藩もさきに出品準備を進めていた。幕府は両藩に出品を取り止めるよう申し入れたが、両藩は断固拒否、結局、3つの日本代表が出品することになった。幕府使節団に加わっていたのが渋沢栄一、薩摩藩で出品契約をしていたのが五代友厚、その後の両者の因縁はここに芽生えた。なお、「博覧会」の語は、幕府随員だった栗本鋤雲がexpositionにつけた和訳に始まるとされる。
日本が政府として初めて参加したのは1873年のウイーン万博からだ。シーボルトやワグネルのアドバイスにしたがって、和風庭園、社殿風展示館、名古屋城金鯱、鎌倉大仏の張り子、工芸品などを展示、好評を博し、ジャポニズムが大はやりとなった。大成功となったものの、ちょうど渡欧中でこの博覧会を視察した岩倉使節団は日本とヨーロッパの間の経済力、技術力の差に大きなショックを受けた。帰国後、内務卿となった大久保利通が殖産興業政策の一環として博覧会の意義を提唱して開かれることとなったのが内国勧業博覧会である。見世物ではなく、出品者間の競争によって魅力ある輸出品を育成しようという勧業目的の博覧会であった。
内国勧業博覧会は第1回(1877年)から第3回(1890年)までは東京で開かれた。第4回は1895年に平安京1100年記念ということで京都。5回日(1903年)については、いくつかの都市が手を挙げて競争となったが、最終的には衆議院において122対108票で東京に勝った大阪の天王寺と堺での開催が決まった。
大成功の第五回内国勧業博覧会
国を挙げての催事であったが、主役はもちろん大阪であった。市は土地買収費などを負担し、博覧会協賛会の会長には住友吉左衛門、副会長には鶴原定吉大阪市長と誘致の貢献者で大阪商業会議所会頭であった土居通夫が就任、大阪市の責任者は森繁久弥の父・菅沼達吉であった。
なぜ大阪は内国勧業博の誘致に熱心だったのか。江戸時代に「天下の台所」として隆盛を誇った大阪は明治維新期には低迷したが、1880年代になって大阪紡績(現・東洋紡)が企業的に大成功したことが契機となって、紡績企業とその関連産業が次々と興り、いわゆる「東洋のマンチェスター」と呼ばれるようになった。こうして第一次産業革命を成し遂げたが、日清戦後には重化学工業を含む工業化、すなわち第二次産業革命が課題となり、さらに、「満韓支貿易」の拠点となるべく、築港大工事が進められていた。
大阪市政面での背景もあった。1889年に誕生したとき大阪市の市域は現在の中央区、北区、福島区、西区のみであったが、1897年に第一次市域拡張が行なわれ、現在の天王寺区、浪速区など周辺28町村が市域に編入されたのである。また、大阪市は成立以来、市制特例と呼ばれる制度のもとで、東京・京都とともに市長・助役は置かれず、府知事の管轄下に置かれていた。1898年に念願の市制特例の廃止が実現、第五回内国博の開催には市域拡大とともに自治権獲得の記念行事という意味合いもあったのである。
第五回内国勧業博覧会は1903年3月から7月にかけて153日間の会期で天王寺と堺で開催された。第5回はこれまでの4回とまったくケタ違いの博覧会となった。まず、来場者はそれまでは100万人が精々であったが、第5回は530万人に昇った。当時の日本の総人口は4,555万人、大阪府の人口は167万人だったから、日本人の8人か9人 に一人、大阪人に換算すると一人で3回強来場したことになる。出品点種は第4回(京都)の169千点がこれまでの最多だったが、第5回では276千点に昇った。
この第5回には際立った3つの特長があった。第一は近代文明・最新技術のデモンストレーションであった。冷蔵庫、ボードウィンの蒸気機関車、蒸気自動車、自転車、無線電信機、印刷機、活動写真、アイスクリーム製造機、染色機、X線機械など世界最新の物産が展示されたのである。
とくに電気の多使用はこの勧業博の最も際立った特長であった。イルミネーションが初めて本格的に使われた。各展示館には電球が装置され、夜になると一斉に点灯された。電球の数は1万1000個、大阪朝日新聞は「暗中に明星の宮殿のみを現出したる大美観には、群衆一時の踊り上り、どよめき会うて拍手喝采し、暫くは恍然として賛美する声のみなりき」と報道している。夜間にも開放され、入場者は54万人に昇った。高さ45メートルの大林高塔、京都の煙草商が建てた高さ70メートル村井兄弟商会高塔には、大阪で初めて電動のエレベーターが設置された。人々は電気の明かりの素晴らしさ、電力の威力をまざまざと実感したのである。また博覧会を契機に着工され、1903年9月に開通(花園橋―築港)となった大阪市電の走る姿をみて、松下幸之助は電気の時代の到来を確信したという。この博覧会は電気の時代の幕を開いたのである。
第二の特筆すべき点は、初めて外国からの参加があったことである。出品数はドイツ8,299点、アメリカ3,326点など、海外14カ国18地域からの出品が出品総数のうち64%を占めた。内国博といいながら事実上、我が国初の国際博覧会であった。外国人入場者も2万3120人に昇った。
第三の特長は娯楽施設、レジャー施設が充実したことである。ウオーターシュート、メリーゴーランド、ロシア曲馬団、アメリカ人ダンサーの舞台などが設置され、人気を呼んだ。動物園、ビアホール、音楽演奏、喫茶会もあった。堺会場では水族館が設置され、95万人が入館するなど大賑わいをみせた。
経済効果はどうだったか。大阪の産業発展、とくに電気の普及と交通の発展に大きく貢献した。電気については先に述べた通りだが、交通面では、官鉄のほか、南海、関西、西成、高野の各私鉄、巡航船(川船)が入場者輸送に大活躍したし、梅田―天王寺博覧会会場間での乗合バスの運行は、自動車時代の先駆けとなった。また、大阪市電が着工されたのは既述の通りである。他方で、人力車は次第に衰退していった。
消費創出効果は1,000万円超、現在価値では358億円と推計されている。他方、経費は128万円(現在価値49億円)だったから、きわめて収益性が高かったといえる。大阪市は「開設なかりせば、久しく萎靡不振の域を脱する能はざりし当市の実業界は、惨憺たる光景を呈せんもまた測る可からざりし」「危を救ひ、更に一導の光明を放ちて新たに財界の活路を拓いた」(大阪市商工課『第五回内国勧業博覧会報告書』)と総括したのである。
レガシィ
第五回内国勧業博覧会は明治時代最大の国家的国際イベントとなった。この成功に気を良くした政府は内国勧業博覧会を発展させた「日本大博覧会」を構想、1912(明治45)年に青山から代々木一帯で開催することを決め、展示館の設計を進めた。しかし、いよいよ各国に招請状を発送しようとした1908年になって、日露戦後の不景気によって財政が悪化し、5年順延、続いて無期延期となり、やがて中止となった。
昭和になると、再び万国博の気運が高まった。国際的イベントの開催によって不況を脱するとともに、日本の産業発達を世界に知らしめ、外国人客を誘致して東西文化の融合をはかることを目的として、東京オリンピックが開催される予定の1940(昭和15)年に「紀元二千六百年記念日本万国博覧会」を開催することが計画された。東京月島と横浜を会場に、来場者4,500万人を見込む大規模な万博で、入場券が発行されるまで周到に準備が進んだが、日中戦争が激しさを増し、中止のやむなきにいたった。
このように戦前、2つの万国博覧会はいずれも幻に終わった。1964年東京オリンピックが1940年に予定され中止となった東京オリンピックのリベンジであったことはよく知られているが、1970年日本万国博覧会もまた戦前の2つの「幻の万国博覧会」のリベンジ開催であったといえる。さらにいえば、それは第五回内国勧業博覧会の成功体験を歴史的淵源としていたのである。
話を大阪に戻す。会場の跡地は、東半分の4万5000坪が現在の天王寺公園となった。外国品展示の参考館、温室、美術館はそのまま残され、1915年に動物園が開園された。また、博覧会近接の茶臼山には住友家の本宅があった。大阪市が長らく市立美術館の土地を探していたことを知って、住友家は美術館をつくることを条件に本宅地を大阪市に寄附、ここに1936年に建設されたのが大阪市立美術館である。その東にある慶沢園も住友邸にあったもので、京都の有名な庭師・小川治兵衛が造った庭園であった。
会場の西半分(4万坪)は大阪建物という会社に貸与され、「新世界」として、「ルナパーク」と通天閣が建設された。ルナパークには、メリーゴーランド、美人探検団、不思議館、戦争パノラマ、氷山館、音楽堂、ホワイトタワー、ビリケン堂、ロープウェイなどが設けられ、大阪市民の代表的娯楽場となった。通天閣はエッフェル塔をモデルにして建てられた高さ75メートルの、当時日本一の鉄塔で、大阪のシンボルとなった。
第五回内国博の成功は次の「大大阪時代」を導くプレリュードとなった。1925年に大阪は人口で日本第1位、世界第6位の都市になる。軽工業に加え、重化学工業が発展、アジア貿易の拠点になるなど経済的に大きく発展する。御堂筋、地下鉄の建設、大阪港の整備、日本初の地方公共団体による大学の開設など、関一市長による都市政策によって大阪は近代都市として変貌を遂げた。第五回内国博は、その地ならし役を果たしたのである。
2025年大阪・関西万博への期待
1970年の大阪万博の需要創出効果は約1兆2億円(当時のGDPの0.5%)であったと推計されている。6,500億円強の公共投資が行われ、大阪の社会資本の充実に効果があった。来場者は6,400万人、2010年の上海万博に抜かれるまで、空前の入場者数であった。私の世代には、大阪万博に何度も行き、いまなお当時の興奮と熱狂を語るひとが少なくない。2025年の大阪・関西万博への期待も大きい。
他のイベントと比べると万博の集客力は大きいとされている。70年万博や2010年上海万博は例外として、大体1,000万人から2,000万人程度の入場者がある。これに対して、オリンピックは800万人から900万人、サッカーワールドカップは300万人ぐらいである。テレビ視聴者を入れるとまったく異なるが、リアルでの集客数では万博の方がはるかに多いのである。会期が長いゆえ、経済効果も大きいのである。それに、これまでの万博の集客ランキング(過去69の万博を対象)をみると、1970年の大阪万博は2位、花博(1990年)は13位、愛知博(愛・地球博、2005年)は15位、つくばの科学博(1985年)は19位となっており、日本の万博は概して成功するといってよいであろう。
しかしながら、注意しなければならないこともある。一つは世界的に万博というイベントは退潮傾向にあるのではないか、とくに先進国のなかでは万博に熱意をもっているのは日本ぐらいではないかということである。万博研究家の平野曉臣氏は万博には80年周期ほどの波があるとしている。第一は1851年のロンドン万博から始まった波で、来場者5,086万人を記録した1900年パリ万博で一つのピークに達した。この万博1.0は「モノで語る博覧会」だったと平野氏は言う。
しかし、これをピークに20世紀にはいると、万博熱は冷め、同じ開催地でありながら、1925年パリ博では1,600万人まで落ち込んだ。これを底にまた万博人気は回復、増加傾向が続き、1970年の大阪万博で空前の来場者数を記録する。この万博2.0は「思いを伝える博覧会」であったとされる。1970年大阪万博をピークに、再び来場者数は減少傾向となり、上海万博の7,308万人、セビリア万博(1992年)の4,180万人を除けば多くて2,000万人程度となった。直近のドバイ万博の入場者数は2,410万人であった。万博人気に陰りが生じているのは、いまなお引きずっている「19世紀工業社会の産物」に代わる新しい理念を万博3.0が明確に打ち出せていないからではないかと平野氏は言う(平野曉臣『万博の歴史』小学館、2016年)。
幸い、日本は1970年大阪万博で「人類の進歩と調和」をテーマに掲げ、万博の歴史に新次元をもたらしたし、既述のようにその他の万博も成功させてきている。その経験を活かしながら、2025年大阪・関西万博によって、万博3.0への道筋を開かれることを期待したい。
第二に注意したいことは万博の経済効果である。1970年大阪万博前後の大阪府のGDPの全国GDPに占めるシェアを調べると、1995年の7.4%から1970年の10.2%まで右肩上がりで上昇が続いた。近畿地方の対全国シェアも同じ傾向で、17.4%から19.3%に伸びた。万博の需要創出効果があったことはあきらかである。
ところが、1970年が分水嶺のごとくに、大阪府および近畿地方の対全国シェアは一貫して下がり続け、2015年には大阪府7.1%、近畿地方15.3%に落ちこんでしまったのである。これは大きな反省点であろう。万博は都市の発展にとって確かに一つの起爆剤になるものであろうが、一過性のお祭り騒ぎで終わってはならない。大阪、関西の持続的発展につながるイベントとなって欲しいものである。