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新着情報

2024年4月16日
会誌「凌霜」

凌霜第441号

 

凌霜四四一号目次

 

表紙絵、カット 昭34経 松 村 琭 郎

 

◆巻頭エッセー

日本経済におけるクロノスとカイロス   松 林 洋 一

目 次

◆母校通信   松 尾 貴 巳

◆六甲台だより   行澤一人、鈴木 純、清水泰洋、四本健二、村上善道

◆本部事務局だより   一般社団法人凌霜会事務局

ご芳志寄附者ご芳名/事務局への寄附者ご芳名

令和6年度~令和7年度の代議員

本誌440号(令和6年1月)の訂正

令和6年度代議員選挙当選人(職歴付)名簿

◆(公財)六甲台後援会だより(76)

◆大学文書史料室から(50)   野 邑 理栄子

◆表紙のことば 花筏   松 村 琭 郎

◆学園の窓

危機に瀕する国立大学   國 部 克 彦

私の研究について   栗 栖 薫 子

学生が求める大学のコスパ   小 林 照 義

ポスト・コロナへ向かうロサンゼルスとその公共交通   松 尾 美 和

戦後の卒業アルバムと学内メディアで見る「ここが変わった神戸大学」   住 田 功 一

◆凌霜ネットワーク

創部120周年の節目祝うソフトテニス部OB・OG会「緑蔭クラブ」   吉 岡 猛 逸

◆六甲台就職相談センターNOW

就職活動と学生生活   浅 田 恭 正

◆学生の活動から

学生の集い場 「ink BOOKS & COFFEE」   奥 谷 賢 弥

◆本と凌霜人

「もう一人の芭蕉句文百韻でたどる曽良本『おくのほそ道』」   有 本 雄 美

◆クラス会 しんざん会、むしの会、神戸六七会、

四四会、一休会

◆支部通信 東京、福井県、大阪、神戸、熊本県

◆つどい 凌霜LTC30、凌霜謡会、水霜談話会、

大阪凌霜短歌会、東京凌霜俳句会、大阪凌霜俳句会、

凌霜川柳クラブ、神戸大学ニュースネット委員会OB会

◆ゴルフ会 廣野如水凌霜KUC会、茨木凌霜会、

西宮高原ゴルフ倶楽部KUC、花屋敷KUC会

◆追悼 前向きの人!村上伸夫君(昭30営)逝く   天 野 昭 信

◆物故会員

◆国内支部連絡先

◆編集後記   行 澤 一 人

◆投稿規定

<巻頭エッセー>

 

日本経済におけるクロノスとカイロス

経済学研究科教授 松  林  洋  一

2つの時間

古代ギリシャには、劫初からの時の流れを静かに見つめている二人の神がいました。一人は、過去から未来へと流れていく物理的な時を操る神であり、名をクロノスと言います。今一人は人間の内奥において感じる心理的な時を操る神であり、名をカイロスと言います。転じてギリシャ語には、時計によって刻まれる客観的な時間を意味する「クロノス」と、主観的な時間を意味する「カイロス」の二つの語彙があります。

現実の経済活動や経済政策に目を転じると、底流においてこのような2つの異なる時間が流れていることに気が付きます。できるだけ早く手を打つべき状況にあり、現在から事態解決に着手すべき時期までの物理的時間(クロノス)は長くはないはずなのですが、いずれ何とかなるという楽観的ムードが漂い、対応しようとするまでの心理的時間(カイロス)は延び延びになっていくというケースです。

逆に状況が大きく変化する時期はかなり先であり、現在からの物理的時間は長い課題もあります。しかし長期的な戦略感をもつことなく、短期的対応で対処する場合があります。問題解決に対する心理的時間が短いケースです。

バブル崩壊からすでに30年以上の月日が経過していますが、日本経済は未だに長期停滞から脱却しているとは言えません。その真因は様々ですが、その時々の政策対応において、先に述べた2つのケースが複雑に絡み合うことによって、停滞が長期化していることに気が付きます。

本稿では、こうした状況を平成以降の経緯において丁寧に振り返りながら、日本経済の将来について考えてみます。平成という時代を評価するには今しばらくの時の熟成が必要かもしれません。しかし近距離にある過去を振り返ることによって、日本経済再生の知恵が得られるかもしれません。

 

不良債権

1990年代初頭からのバブル崩壊によって、金融機関の貸出は不良債権と化していきました。この不良債権の処理は、実に10年以上の月日を要することになり、バブル崩壊後の「失われた10年」と呼ばれる景気低迷の主因となりました。

巨額な不良債権の発生は、債権、債務者双方の経済活動を委縮させ、マクロ経済に多大な悪影響を及ぼします。不良債権処理はできるだけ短期間に集中して行うべきであり、処理に当てられるべき物理的時間は長くはありません。他方、早急な対応が必要であるという危機意識は希薄で、景気が回復すれば早晩問題は解決するだろうという認識が広がっていました。当事者の心理的時間は延び延びになっていたのです。この2つの時間の乖離は、特に1990年代前半において顕著でした。一部の当事者は、早い時点で不良債権の発生を認知していたと言われています。しかし危機の認知は、それを黙視するメカニズムによって危機への対処にまで至っていなかったのです。

政府の下で、実際に政策対応を立案、実施するのは省庁(官僚)です。しかし各省庁は、独自の組織哲学、理念、業務慣行を持っており、任務遂行という目的を最大化する際には、このような独自の制約、環境のもとで行われることになります。金融監督を一手に掌握していた大蔵省は、護送船団方式を継続するという理念のもとで、本質的に合理的と考えられる対応=金融機関の整理統合を含む抜本的処理を敬遠していました。こうした組織体のもとでは、組織の哲学やこれまでの慣例が尊重され、前例のない事態の変化、早急な対応を要する変化に対して、消極的になっていきます。不良債権に対する甘い認識と早急な対応に躊躇していた組織構造がポイントでした。

 

デフレーション

1990年代の景気後退に伴い、物価は緩やかに低下していきました。2000年代に入ると、グローバルな価格競争や借入債務の大胆な縮小に伴い、多くの企業でコストカットが進み、デフレの色彩が強くなっていきました。しかしデフレに対する抜本的な対応は、さらに10年後の2010年代を待つことになります。デフレは、マクロ経済にとって脅威であり、歴史的に見ても長期化する傾向にあります。したがって不良債権の処理と同様に、できるだけ早く手を打つべきであり、現在から事態解決に着手すべき時期までの時間は長くはないはずなのですが、いずれ何とかなるというムードが支配的でした。

コストカットは短期間で企業収益を改善し、家計にとっても安い商品が購入できるという意味で魅力です。個々の経済主体にとって物価下落は必ずしも悪ではないという認識が広がっていたことが対処を送らせた最大の要因でしょう。一方政策当局ではデフレの進行は認識しつつも、その原因を探り出すことはなかなか難しいため(学術的にも議論が錯綜していました)、抜本的な対処に至るまでに紆余曲折していました。デフレに対する認識が甘かった点、デフレの真因を探りあぐねていた点がポイントでした。

 

人口減少

人口減少は、市場の縮小によって経済成長の鈍化を余儀なくするだけでなく、国民全体の意識に閉塞感、退嬰(たい えい)感を生み出すことになります。わが国の総人口は2005年に戦後初めて減少を記録し、2008年以降減少傾向を見せていました。ただし生産年齢人口は、すでに1996年から減少に転じていました。最新の人口推計によれば、総人口は約50年後の2070年に9,000万人を下回るようです。

このように人口減少の兆候はすでに20年近く前から見られており、半世紀後の姿も概ね予想されています。人口の動態は長期的な変化ですので、半年後や1年後に急速に状況が変化するわけではありません。つまり状況が大きく変化すると予想される時期はかなり先であり、現在から変化の時期までの物理的時間は長くなります。しかし人口減少に対する冷厳な認識が国民全体に共有されているとは言えません。中長期的視野に基づく抜本的な解決策の策定がなされているとは言えず、短期的な対処に終始しており、問題解決に対する心理的時間は短くなっているようです。心理的時間よりも物理的時間が長いという意味で、不良債権やデフレとは逆のケースが生じていることになります。

こうした状況を生み出している主因は、不良債権処理の長期化、デフレ脱却の長期化によって、人口減少の問題を深刻に受け止めることを怠った点にあります。不良債権とデフレーションへの取り組みが遅れ、結果的に1990年代以降、失われた20年と呼ばれる長い経済停滞を辿ることになります。人口の増減は、生物学的要因や結婚出産に関する社会的要因などが大きな影響を及ぼすため、経済問題として認識される度合いは薄くなりがちです。しかし重要なポイントは、失われた20年という経済停滞によって日本の労働市場は大きく変質し、子供の出産、育児が夫婦にとって経済的に困難なものとなり始めている点です。顕在化し始めた人口減少は長期停滞の帰結であると言っても過言ではありません。そして今日、いざ人口減少に本気で対処しようとする時、巨額な政府債務が足枷となり、長期的かつ抜本的な施策を困難なものにしつつあります。現在検討されている少子化対策、子育て支援は、財源の問題に翻弄され、きわめて近視眼的な対応になってしまっているのはそのためです。人口減少と密接に関連のある社会保障問題も状況は同じです。

そして未来へ

不良債権の処理とデフレの克服は、性急に対処すべき事態に対して、いずれ何とかなるという心理が支配的であったという点に要約できます。端的に言えば「問題の先送り」です。先送りの帰結は長期停滞であり、長期停滞は人口減少や社会保障といった長期的課題への抜本的対応の足枷となっているというのが現在の状況です。未来への先送りによって、歴史からの復讐を受けている状況と言えるかもしれません。

平成における政策対応に関する物理的時間と心理的時間の乖離は、我々に何を教えてくれるのでしょうか。直面する課題に対して、より深くより広いアングルから、より早い時点で認識し、認識を広く共有することが鍵となるでしょう。認識に基づいて速やかに実行するためには、政策主体の組織体が即応性かつ実効性のある体勢に変革される必要があります。勿論こうした変革は容易なことではありません。しかし歴史からの復讐を受けないためには、歴史から学ぶ姿勢が不可欠です。平成という時代は、遠い過去の歴史ではありません。目の前の歴史から学べる教訓は少なくないはずです。

 

六甲台キャンパスも春色に染まり、新学期がスタートしました。学生の皆さんへの講義では、過去30年にわたる日本経済の変遷を、単なる数量分析による説明だけでなく、その時々の政策決定の実態や歴史的エピソードも踏まえ、多面的な側面からお話しできればと考えています。90分の講義時間(クロノス)が、それよりもはるかに長く退屈に感じる時間(カイロス)とならないことを願うばかりです。